論破したい欲求だけでスピ系ブログ書いたら進歩はない?

色んな人のブログを読むにつけ。

ま、とくにスピ系ブログを読むにつけ、思うんですよね。

それって、誰のための主張なのかって。

ここって、スピ系を扱う時に大事な指針だなって思うんですよ。

スピ系って心を扱うものですしね。

 

純粋に、「これ、オモロイでしょ? どう? やってみない?」的な話題なら楽しみの共有のためと言えます。

「こういうこともあるんだよ! 面白い世界でしょ?」というのも似てます。

「こんなの発見したよ、どう思う?」というのもそうです。

 

一方で、少しネガティブが入りますが、「これはマズイよ! 世の中悪い方に行っちゃうよ! 注意しないと!」というのはどうでしょう?

マズイ側の人、悪い方に向かっているとされた人は気分を害すかもしれませんが、主張する方は、自分のためであり、他人のために書いてます。

でも、これって書くたびに罪悪感が出てくるんですよね。

何かを否定することになるからです。

 

でも例えば、よく引き合いに出す日月神示を読むと、自分を責められているように感じることもあるかと思います。

「聖者であれ」みたいな記述がありますよね。

でも、「いやいや、オレには無理っす。聖者になれないっす。勘弁してください。責めないでください」みたいな。苦笑

そう思うこともあるでしょう。

 

なので、(日月神示のようなものを僕が書けるとは思いませんが)、必ずしも相手をネガティブにさせることが悪なのか、というと、そうでもないのかなあって思ったりするのです。

強いて言えば、必要悪かなあ……。

いや、そもそも日月神示って一瞬ネガティブに読めるけど、一瞬自分が論破されて否定されたように感じるけど、それを意図して書かれたものではないのです。

人間のあるべき姿はこうだと書かれているわけで、そうすれば世界は丸く収まるから、そうしろと書いてるだけですからね。

 

もちろん、僕も、そういう書き方をしているつもりではあります。

話が具体的になればなるほど、そうは読めなくなる場合もありますが、主張するときの方針は一貫してるつもりです。

ただ、「こんちくしょ!」と思って書くのでなく、あー言ってきたからこー書く、とかでなく。

バランスをとりつつ、双方に不愉快にならないように書く、と。

あとは、もはや読む人の取り方かなって思っちゃうんですよね。

 

なので結局、ネガティブに見えることでも、全てのものが必要なんじゃないかなって思って書き続けてしまうのであります。

 

が、、、、、例えそれが「論破したい欲求」とかでも場合によっては教材になるよなって思うこともあったりします。

往々にして僕らのような素人が日月神示と同じことをやろうとしても、世の中への批判から、ただ政策や政治家、論客を論破したい欲求がちょいちょい顔を出します。

やられたら、やりかえす、的なもの。

目には目をのハンムラビ法典的な。笑

 

ブログはまだしも、ツイッターとかはそうですよね、いつもみんなで殴り合いしてますよね。笑

観客として面白がって見るくらいでとどめておかないと、知らずに殴り合いに参加しているケースもありますからね。

ちょっとリツイートして賛同して見たり、イイネしてみたり、それはもうリングに上がったも同然。

こうなってくると、まさに国民同士のつぶし合いの様相。

 

同じ主張は一回でいいよね。

主張はSNSで直接相手に言わなくてもいいよね、ブログで書けば読みたい人だけ読むよね。

そう徹底できればいいですけど、なかなかそうはいかないこともあるでしょう。

 

でも、、、でもですね。

殴り合いとはいえ言論です。(罵詈雑言、誹謗中傷は言論ではありませんから注意)

ツイッターや掲示板、時にブログでさえも論争の場になることと、殴り合いの場と例えてよいものか。

それが各種メディアに取り上げられて民意の反映として世の中の指標になったりするわけですからね。

今の時代はね。

 

そこで「やっぱり、こっちの意見の方が正しそうだな」ということを知ることができる。

または、逆に自分とは反対の意見も知ることができ、下手したら考え方も変わるかもしれない。

それを考えると、やっぱりこういう場も必要であり、禁止されるべきもの、否定するべきものではないなと思うのです。

 

100%完璧な天国のような社会には不要だけど、「今は必要なんだろうな」と、こういう思いが最近はフツフツと湧き出してきております。

 

例えば、陰謀論だとか、フェイクだとか、それもまたケースバイケースで必要なんですよ。

以前にも書きましたが、そういう怪しいものからも異なる視点を得ることができる場合もあるし、時にエンタメになる。

何事も一長一短なのです。

 

政治的右派・左派、全ての意見は何らかの使い方があるわけでして、その使い分け方法を知らないから一方向に固執して偏ってしまうわけです。

両極を知れば偏ることはありません。

どっちかに偏ると、いよいよ潰し合いの渦中に知らずと引き込まれてしまうわけです。

 

ていうか、どっちが正しいとか、そもそも無いですからね。

意見が二つに分かれれば、その中心があるだけです。

 

だから思うのです。

ここまでくると、どこでラインを引くかだなって。

人を直接的に殴ったり、殺したり、そういうことは絶対にダメです。

でも、言論であれば、そのラインをどこに引くかは難しいところですが、ケースバイケースで引き方を変えれば、それは世の中に静かに響くこともある。

 

最近「言い方」って言うでしょ?

キッツイ言い方する人に「言い方!」ってやんわりと注意したりして。

それですよ。

つまり、「書き方」です。笑

 

時に持論展開、自己主張、時に激しく反論する日もあれば、また別の日に、議論などしてはいけない、平和に生きるんだとか思う日もあり。

「どっちやねん!」って感じですが、そこは使い分けるしかないんじゃないでしょうか。

無理に断言しても、どうせ人間ってのは、コロコロと考えを変えます。

上手に使い分けて、両極を否定しない事が重要です。

 

世の中の問題など何も考えず、ただ与えられた環境でノホホンと楽しく生きることもできるんですよ。

自分に降りかかってきた火の粉も、ささっと払ってノラリクラリで生きていくこともできるんですよ。

何度、そっちに行こうかと思った事か。

だって、それができるんだし、その方が楽だし。

 

でも楽な道を、ずっと楽しめれば良いですが、やっぱり僕は飽きてしまう。

新しい視点を得たい、新し世界を見たい、そのためには常に両極を見たいという欲求があるのかもしれません。

だからいつも、こういう駄文を書いてるんでしょうなあ。笑

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